
ゼルドマン氏は、 A List Apart* および The Daily Report*を発行。Happy Cog Studios*の経営者でもあり、また著書にDesigning With Web Standards*(New Riders社、2003年)があります。
By ジェフリー・ゼルドマン
僕の父は日曜画家だったので、家には美術書がたくさんありました。子供だった僕は、それにものすごく大きな影響を受けたのです。他の子たちと同じように、僕も実物を完璧に再現した描写に魅了されて、古代ローマ戦士や絵のように美しい村々、夕日に浮かぶローマ遺跡なんかを丹念に描いたものを、夢中になって眺めていました。アートとは、うまく描くことだと思っていました。僕の幼い理解では、ディテールが丹念に描き込まれているほど、あるいはエッチングなら線が多いほど、木には葉っぱが多いほど、そのアーティストは素晴しいと思っていたわけです。その後、少し大きくなった僕は、コミックブックに出会いました。さらに大きくなると、美術館に行くようになりました。マクスフィールド・パリッシュの作品を観たときには、ドラッグに手を出したい気にさせられただけじゃなく、自分は絶対に画家にはなれないと悟らされました。ポール・クリーは、絵の下手なダメ画家みたいな気がしました。アンディ・ウォーホールは、アシスタントを使うなんてペテン師だと思いました。
今となってはアートが理解できるなんてフリはしないけども、確実に言えるのは、幼かった頃に僕が受けた印象はアートの本質とはほとんど関係なかったということです。すべては、純粋にビジュアル的な刺激だったんです。ディズニーランドやサーカスと同じ。アートはスペクタクルだったんです。でも、マッターホルン・ボブスレーなんかのアトラクションだって綿菓子だって、そのうち嫌気がさしてきます。僕の場合もそれと同様、刺激から卒業して、次はスタイルに目覚めました。スティーブ ディッコの描くスパイダーマン、ポップアート、それからロックやソウル、それにパンクのアルバムジャケットなんかも好きでしたた。スタイルに関しては、中毒みたいなものでしたね。その良し悪しは分からなくても、何がクールかは分かっていました。
「今の若手Webデザイナーの中には、当時の僕がポップカルチャーを見ていたのと同じような目で、自分の作品をとらえているデザイナーが多い。クールか、ゴミか。それだけです。」
今の若手Webデザイナーの中には、当時の僕がポップカルチャーを見ていたのと同じような目で、自分の作品をとらえているデザイナーが多い。 クールか、ゴミか。それだけです。」スタイルをデザインと勘違いしているわけです。この2つは全く別物だというのに。デザインとは、つまりコミュニケーションです。デザインのあるWebサイトなら、どのページを見ているか、そこで何ができるかが分かるし、それをやってみようという気にもなります。一方、スタイルはどこまで行ってもスタイル。何をコミュニケートできるかというと、それはスタイルそのものに他ならないのです。ビジュアルの側面から言えばスタイルはデザインの1要素、商業的な言い方をすればブランド属性をコミュニケートできるのがスタイルです。
いや、スタイルそのもの以外にも、スタイルがコミュニケートできるものがあります。サイトの趣旨を軽視するデザイナーの姿勢がそれです。「これじゃ退屈な感じだからストライプを入れよう。ここにはドロップダウンメニュー。どうだい、こんなプロジェクト、僕には朝メシ前さ」という具合です。こういう場合、スタイルは同業者に対する密かなメッセージとして利用されているわけで、サイトの利用者や目的とは何の関係もありません。それどころか、こんなパッチワークみたいなスタイルは、サイトの目的を邪魔することにもなりかねません。そこでユーザビリティにうるさいお偉方が出てきて、「デザイン」が悪いと責められます。スタイル至上主義が失敗の原因だというのに。
スタイルばかりに目が行くデザイナーでも、成功できることはあります。自分が好きでたまらないスタイルを活かせるプロジェクトだけを選んで仕事できればの話ですが。ほとんどのWebデザイナーには、そんな贅沢は許されなません。にもかかわらず、彼らはトップデザイナーのスタイルの使い方を真似て、自分の仕事の中でそれを実行しようとします。だから、eコマースのサイトがレイブミュージックのフライヤーみたいになってしまうんです。装飾だらけの情報サイトも、たまには面白いものがあるにせよ、大抵は誤解を招くような、訳の分からないイントロがくっついているものばかりです。
かつてのWebは電話帳みたいに見えたものだが、今はデザイナーのポートフォリオと変わりません。有名なデザイナー20人ほどのポートフォリオみたいなものです。彼らのスタイルのコピーや、そのまたコピーに溢れ、それを作っている若いデザイナーたちときたら、自分をその有名デザイナーの弟子か何かだと思っています。こうした若手デザイナーたちには、グラフィックデザインとコミュニケーションデザインの違いなんて完全に無いも同然。それは、プロジェクトの本質から浮かび上がってくるべき本物のスタイルと、模倣の寄せ集めを3本目の腕みたいにあちこちのプロジェクトに移植することの違いが見失われているのと同様です。
盲目的にスタイルばかりが信奉されてしまっては、サイトのビジターが混乱するばかりか、そのサイトにお金を出しているユーザや企業の利益も損ねることになります。 そのサイトの利用者は誰なのか、何のために利用するのか。それをデザイナーがまず確認するところから始めなければ、サイトは無意味な目の保養にしかならず、結果的にその美しさも、少なくとも一部の人々の間では、悪評で締めくくられることになるのです。
問題なのは、我々は表面にばかりとらわれた(そしてその下にあるものを見ることを恐れている)社会に生きているということです。 200ドルもするスニーカーが、クールだとかBeckの曲がCMで流れているからというだけで売れるような消費者文化だから、チカチカしたりキラキラしたりするものが、どこでも大事な必需品扱いされています。
一部のクライアントや、ほとんどの若手デザイナーの間では、Flashを多用したマルチメディアプロジェクトがWebデザインとイコールになってしまっています。サウンドやモーションがなければ良くできたサイトではないし、なにしろ絶対にクールじゃない。Flash(SWF)では、すばらしい作品も作られていますが、いろいろな賞、特に伝統的な権威ある賞は、それを過度に評価しすぎています。「デジタル作品」というだけで、数百万ドルをかけたテレビCMよりも優れていると思われます。審査員は、ほとんどのフィルム映画よりも、後から登場したテレビCMの方がコンセプトでも制作でもレベルが上と見ているのです。当然、さらに新しいWebサイトは、そのどちらよりも優れているはずだ、と。
最先端のテクノロジで限界を次々と打ち砕いていく装飾的なスタイルの実験は、審査員がT1接続のG5やPentiumを使い、ワイドスクリーンの最新ブラウザで作品を見ている限り、賞を取り続けていくでしょう。しかも、グラフィックデザインとプログラミングが受賞に値する作品だけが、賞を与えられるということは言うまでもありません。僕は何も、デザインが悪いのに受賞できると言っているわけではありません。クオリティに関しては最高レベルだが、ごく限られたタイプのデザインだけが評価されているという話をしているのです。
僕の仲間にも、この種のサイトのデザイナーが多い。彼らの作品を見ると、その凄さに目が飛び出しそうになるし、彼らが受けるに値する賞をもらうと僕だって嬉しくなります。でも同時に、心配にもなるのです。
"ほとんどのWebサイトには、見た目の美しさと徹底的なユーザビリティとの微妙なバランスが不可欠なのに、そのバランス感覚のあるデザイナーがまったく足りていません。"
なぜ心配するのか?それは、この種のデザインが、適切な場合もあれば不適切な場合もあるにもかかわらず、Web デザインの中で唯一、評価を受けているからです。 そのために若いデザイナーたちは、この種のデザインを真似てプライベートな作品を制作する(それは素晴しいことだが)だけでなく、仕事の上でもそれをやってしまうので、困ったことになる場合があります。
なぜ心配するのか?それは、スタイルをデザインと勘違いしている若いデザイナーたちが、憧れのデザイナーの技術的なテクニックや華々しいスタイルばかりを学び、メディアを使ってコミュニケーションすることは必ずしも学んでいないからです。「ブレットタイム」は『Matrix』にはいいけれど、ドキュメンタリーには向きません。それに、Webデザインのほとんどは情報提供を目的として(あるいは、そうあるべきだと考えられて)いるのだから、いろいろなデザイナーが生み出したすばらしいスタイルを寄せ集めて並べたところで、情報サイトは混乱しこそすれ、メディアとして進歩することにはなりません。
なぜ心配するのか?それは、いつまでたっても自分独自のスタイルを築けず、もちろん特定のプロジェクトでもブランドに合ったスタイルを生み出せないデザイナーがいるからです。そして、採用担当者にデザイナーを冷静に評価する目がなく、ポートフォリオを見れば「何がクールか」という知識しかないと一目瞭然のデザイナーを、不向きな部署に送り込んだりするからです。(「君の才能があれば、ここの仕事は大成功だ」なんて言ってね。)そして、ブランディングやコミュニケーションデザインを真に理解し、スタイルとデザインの違いを知っている従来のデザイナーが、やがてこのマーケットに参入し、一部の若手デザイナーの居場所がなくなってしまうからです。若い彼らが自分の作っている作品を本当に理解するチャンスがないままに。
そして僕は、メディアについても心配しています。なぜなら、ほとんどのWebサイトには見た目の美しさと徹底的なユーザビリティとの微妙なバランスが不可欠なのに、そのバランス感覚のあるデザイナーがまったく足りていないからです。しかもWebデザイナーにとって、そのバランスに苦心する見返りは減る一方です。こうした仕事を成し遂げたところで、Webユーザには喜ばれても、業界からは報酬をもらえるだけで、全く何の賛辞も得られないのですから。(「このサイトはすごい!読み込みも早いし動作もスムーズ。パパの古いDellコンピュータで、IE3なのに。」賞の審査員がいつもこう言ってるって、知っています?僕も知らないね。)
そして何よりも、僕はWebユーザのことを心配しています。 商業用Webサイトが現れてから10年以上も経つというのに、ユーザは未だに探しているものを見つけるのに苦労しているし、なぜこんなにWebの文章は読み辛いのかと不思議に思っています。これは実際に、ほとんどのユーザがオンラインで苦労することなのです。
我々の社会がデザインよりもスタイルに、そして本質よりも表面に価値を置いている限り、この状況が良くなることはないでしょう。4年に1度の選挙の時にも、もちろん同じことを思いますが。